藤原四子の一人、式家宇合(うまかい)の嫡男に生まれ、官僚として出世街道を歩むが、突如大宰府に左遷。その後、僧玄ボウ(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)の排除を訴える上表文を提出し、九州全土の兵を集め蜂起するもあえなく敗死する。両軍それぞれ一万人以上、奈良時代最大規模と言える内乱の首謀者となった生涯に迫り、死後怨霊として伝承となった姿にも説き及ぶ本格的な伝記。